手の記憶、髪の余韻。

映画『国宝』を観た。

静かで、凛とした映画だった。
観終わったあと、しばらく席を立てずにいた。

心の中を決して静かではない風が吹いたような、ざわざわとした余韻が、なかなか静まらなかった。
物語の中心には、一つの技を極めた職人と、それを受け継ごうとする若い世代の姿があった。

派手な演出も、叫び声も、涙を誘う音楽もない。
それでも私の心はずっと揺れていた。

なぜだろう。

たぶんそれは、そこに映っていた「手」と「まなざし」が、あまりにも美しかったからだと思う。
映画のなかで、老いた職人が何も語らず、ただひたすらに手を動かす場面がある。

その指先の動きが、言葉にするよりも遥か多くを語っていた。
これは誰かのための所作であり、同時に、自分の心を整える祈りのような行為なのだと。

私は美容師という仕事をしている。

日々、お客様の髪に触れ、その人に合うかたちを探している。
髪は生きている。
昨日と今日で状態が変わるし、心の状態だって髪に出る。

だからこそ、毎回が一期一会だ。

目の前の人に合わせて、手の動かし方も、声のかけ方も、少しずつ変えていく。

その繊細な“手ごたえ”を、私はとても大事にしている。
映画『国宝』を観ながら、私は自分の“手”のことをずっと考えていた。

この手は、これまでに何人の髪を切ってきただろう。
その一人ひとりの髪に、私はちゃんと向き合えていただろうか。

ただ流れ作業のように切ってしまった日も、あったかもしれない。
それでも、あの日の手が、誰かの背中をそっと押していたら――
そう思えるだけで、私はこの仕事を続けていてよかったと思う。
技術は磨くものだ。

でも、技術の先にあるものは、ただの「上手さ」ではない。
目には見えないけれど、手に宿るあたたかさとも呼べる確かな技術に変わるもの。

人を思う気持ちや、手を尽くす覚悟が、そのまま指先から伝わるようなもの。

映画の中で、師匠と弟子が交わす会話は少ない。
けれど、言葉よりも濃密なものが交わされていた。

師匠の背中を見て育つ弟子。
その背中にある重み、沈黙の中にある敬意。
「教える」のではなく、「在る」ことで伝えていくもの。
それは、美容師の世界にもたしかにある。

誰かの手さばきを見て学び、見えない何かを受け取っていく。
そうやって少しずつ、自分だけの「手」ができていく。
お客様が鏡の前で笑顔になる瞬間。
その瞬間のために、私は毎日この仕事に向き合っている。

髪を切るという行為は、表面だけ整えることじゃない。
その人の内側をそっと後押しすること、そして伴走することでもある。

たとえば、ちょっと落ち込んでいた日。
たとえば、なにかを新しく始めようとしている日。

その小さな節目に、美容師の手が関われることは、とても大きな意味を持っている。
映画のラストシーン、老職人の表情がほんのわずかに揺れる。

言葉にすれば簡単なものかもしれないけれど、
その揺らぎのなかに、すべてが込められていた。

伝えるとは何か。

残すとは何か。

目に見えるものだけがすべてじゃない。

むしろ、大切なものは見えない場所にこそ宿っている。
この映画を観たあと、私ははさみを持つ手を、いつもより少しだけゆっくり動かした。

ただ切るのではなく、感じながら、気持ちを込めながら。

今日も誰かの髪に、目に見えない小さな光が宿りますように。

そんな願いを込めて。
美容室という空間のなかで生まれる、ささやかな奇跡。

それは、映画のなかで描かれた職人の世界と、どこかでつながっている。

技術を超えて、人にふれる仕事。

この「手」でできることの意味を、私はこれからも考えていきたい。